市の埋蔵文化財センターには2回ほど行ったことがあり、この鉄剣のレプリカも見ているが、発見当時に大騒ぎされた割には地味な展示で、何でこの程度????と思っていた・
それが、今回の記事では、なんと当時、発掘に携わった嘱託職員が関連資料を自宅に持ち帰っていたため、重文指定のための申請書が作れていない由。
その元嘱託職員の言い分も記載されているが、よくぞまあ、その程度の言い分だけで、ズルズルと資料を取り戻せないでいたものだ。
発掘した資料は市の所有物。
それを、いくら調査団の一員だったからといって・・・そんなことはありえない話だが、仮に団長が許可していたとしても、個人で持ち続けることが許されるものではない。
これはもう、窃盗だ。
ちょっと前、岩手県で長年にわたり文化財を切り取っていたき古参学芸員が世間の糾弾を浴びたが、この元嘱託職員も、ずっと同じ仕事に携わり、自分はオーソリティーだから・・・などと勝手に思い込んで、公私のケジメがつかなくなっていた・・・。
そんなことも十分に考えられる。
その職員ならびに20年以上もズルズルとこの問題を引っ張ってきた歴代の責任者を、市長は裁判に委ねるだけでなく、特別委員会を設置してでも、別途、糾弾すべきだ。
以下は、毎日新聞の記事。(現物は写真付き)
「重文級」なのに… 文化財に30年指定されない鉄剣 浮かぶある人物
1970年代に千葉県市原市の古墳から出土し、80年代にX線鑑定で銘文が確認された鉄剣がある。王が臣下に「下賜」したことをうかがわせる銘文から「王賜銘鉄剣」と呼ばれ、「重要文化財級の価値がある」として新聞の1面も飾った貴重な出土品。ところが銘文確認から30年以上過ぎた今も、国の文化財指定の手続きを受けた形跡がない。背景を調べてみると、出土品を巡るさまざまなトラブルが浮かび上がってきた。
王賜銘鉄剣は市原市の稲荷台1号墳で見つかった。87年に国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)で鑑定したところ、約1500年前に作られたとみられ、表裏に刻まれた文字の中に「王賜 敬」という刻銘もあった。88年1月11日の毎日新聞は1面トップでこう伝えている。「千葉・市原の稲荷台古墳 最古の銘文入り鉄剣」「『王賜』など文字解読」。剣を与えた王は誰なのか。古墳時代の王権の実像に迫る手がかりとして脚光を浴びた。
市原市によると、各地の古墳などに残された銘文入りの鉄剣・刀で、王賜銘鉄剣と同様の歴史的価値があるのは他に9本あり、いずれも重文か国宝に指定されている。最近では、福岡市の元岡古墳群G群6号墳出土の「庚寅銘大刀」が刻銘の確認から約8年後の2019年、重文に指定されている。それなのに、市原の王賜銘鉄剣は国の指定を受けていない。
例えば重文は、美術工芸品や考古資料などのうち特に学術、歴史的に価値が高いものについて、文化審議会が文部科学相に答申し、指定が決まる。重文以上の指定を受ければ保護のための補助が出るほか、公開の義務も課される。指定に向けては調査報告書が重要になるが、王賜銘鉄剣に関しては今も報告書がない。
なぜか。経緯をたどってみると、王賜銘鉄剣以外の出土品87点が外部に持ち出されていたことが影響していることがわかった。
市原市は70年代、文化財の調査会を設けて遺跡や古墳の発掘を進め、稲荷台1号墳も調査団を組織して調べた。発掘された出土品は約7万8000箱に分けて仮設倉庫、その後に市埋蔵文化財調査センターで保管していた。ところが98年、稲荷台から出土したもののうち少なくとも87点が消えていたことが判明。王賜銘鉄剣を除き、稲荷台から見つかった他の出土品は持ち出されていた。
ほどなくして持ち出したとみられる人物が浮かぶ。発掘に携わり、文化財を管理する市の外郭団体の嘱託職員も務めた男性(72)だった。研究者でもある男性は、持ち出したことを示す記述を自著に残していた。
市原市は88年、王賜銘鉄剣のほか一緒に見つかった出土品の概報を作成しているものの、正式な報告書を刊行できていない。市の担当者は、副葬品の須恵器など周辺の出土品も分析することで詳細な年代判定が可能になり、王賜銘鉄剣の学術的な価値も証明できると説明する。しかし、そうした周辺出土品は部外に持ち出されており、報告書も作成されていない。だから「正確な評価を示せず、国の文化財指定の俎上(そじょう)に載せられない」(担当者)というのだ。
市原市によると、元嘱託職員の男性は91年まで在籍した。在籍時に持ち出したとされる出土品について、市はそれが判明した98年以降、男性に返却や報告書の作成を求め続けた。18年末に男性側から交渉を拒絶する内容の手紙が届く。市は19年8月、占有移転禁止の仮処分を千葉地裁に申し立て、男性宅にあった武具の一部など出土品77点を強制執行で差し押さえたが、須恵器片など10点は見つからなかった。市は今年1月、出土品すべての返却などを求めて提訴した。
持ち出し発覚から20年以上。返却を求めて行動しているとはいえ、市原市の対応の遅さを批判する声も上がる。22年開館を目指して博物館を建設中で、王賜銘鉄剣専用の展示スペースを設けて目玉にしたい考えの市。重い腰を上げたのは「お尻に火が付いた」からではないか。文化財を大切にする熱はあるのか――。昨年末の市議会教育民生常任委員会では、市議からこんな指摘も出た。6月上旬。男性に真意を聞こうと、市原市内の自宅を訪ねた。「私の思うことを話したい」。男性は玄関口で取材に応じた。
市と大きく見解が食い違うのは、文化財の所有権に関する認識だ。男性は、発掘調査は自身も参画していた調査団が実施し、団長を務めていた研究者の許可を得て出土品を自宅に運んだと強調。「無断ではない」と訴えた。市が何度も返還を求めたと説明していることについては「本格的な話し合いは2年ほど前からで、それ以前は数回だけだった」と反論した。
出土品を持ち出したため王賜銘鉄剣の文化財指定が進まないのではないか。そう聞くと、男性は「調査意思はある。ないがしろにするつもりはない」「私のペースで計画を立ててやっている」と答えながらも、具体的な時期は明言しなかった。そして男性はこう付け加えた。「報告を出せるのは発掘調査した人間だけ。私には報告書を完成させる責務がある」
6月19日には千葉地裁で第1回口頭弁論があり、双方は争う姿勢を示した。
鉄剣を鑑定した白石太一郎・国立歴史民俗博物館名誉教授は当時「重文の指定は間違いない」と語っていた。その思いは今も変わらず「5世紀の早い段階の貴重な資料。国の指定が検討されてしかるべきだ」と話す。
国の文化審議会委員の佐藤信・東京大名誉教授(日本古代史)は鉄剣について「重文に指定されてもおかしくはない」と語る。対立する市原市と元嘱託職員。佐藤さんは「文化財は国民共有の財産。男性はそれを認識すべきだ。市も出土品を整理して適切に管理する責任があった」と指摘している。
https://mainichi.jp/articles/20200704/k00/00m/040/229000c